作品の移動は、対等な交流だけではなかった

19世紀後半から20世紀初頭、アフリカ、オセアニア、アメリカ大陸の多くの造形物がヨーロッパへ入りました。交易や贈与で渡ったものもあれば、軍事遠征、植民地行政、宣教、略奪、民族誌調査を通じて持ち出されたものもあります。

ヨーロッパの芸術家が新しい造形に出会った一方で、制作した共同体はその作品を失っていることがあります。『異文化との出会いが近代美術を豊かにした』という話の陰に、誰が移動を決められたのかという力の差が残ります。

作者、用途、元の場所へいったん戻る

ファンの守護頭部ンロ・ビエリは、単独で鑑賞する彫刻として作られたものではありません。祖先の遺物を納めた容器と結びつき、家族の記憶、保護、儀礼に関わりました。造形の単純さや抽象性だけを抜き出すと、その役割が消えます。

作者名が西洋式に記録されていなくても、『文化全体が自然に作った』わけではありません。作り手の技術があり、注文者がいて、地域ごとの違いと使用の履歴があります。まず作品カードで文化名、年代、素材、来歴を拾う。そのあとで形を比べる方が、作品を一括りにせずに済みます。

「プリミティヴィズム」は誰のための分類か

マティスやピカソらは、アフリカの彫刻に自然主義とは異なる人物表現を見いだし、自分たちの造形実験へ取り込みました。その接触がフォーヴィスムやキュビスムの展開に重要だったことは、美術史で広く論じられています。

一方、『原始的』という語は、多様な文化を文明化以前の同じ段階へ置き、西洋の近代性を上位にする見方を含みます。近代作家の独創性だけを語り、参照された作品の作者、機能、歴史を消すと、植民地主義的な序列を繰り返します。現在はこの用語自体を批判的に扱います。

影響の矢印に、移動と権力を加える

植民地主義の話をすると、近代美術の価値を否定されたように感じる人もいます。ここで確かめたいのは、どの造形がどの経路で見られ、何が選ばれ、どこで誤読され、誰がその後の価値を決めたのかという過程です。

フアン・グリスのキュビスムを見ても、アフリカ美術だけを唯一の原因にはできません。セザンヌ、写真、都市文化、画家同士の実験など複数の線が交差します。作品、物、人、制度が動くネットワークとして追うと、革新が生まれた過程と力の不均衡を一緒に見ることができます。

ラベルで、来歴と元の用途を確かめる

展示室では、近代絵画と参照された文化の作品がどの部門に分けられているかを見ます。『美術』と『民族資料』の区分、照明、台座、解説文の長さも、どちらを主体として語るかを決めています。

ラベルに取得年があれば、その年と取得方法を確認します。返還や共同管理をめぐる議論は、所有の問題が過去形ではないことを教えます。形を味わいながら、誰が語り、所有し、移動させたのかも見る。二つの視線は両立します。

作品で見る

ベツィ=ファンの作家《ンロ・ビエリ》
ンロ・ビエリ(聖遺物容器の守護頭部) / ベツィ=ファンの作家19世紀
祖先の遺物を守る役割と固有の制作文化を持ち、近代作家の参照源だけでは説明できない造形
画像を拡大画像出典
マティス《帽子の女》
帽子の女 / アンリ・マティス1905年
自然な肌色や輪郭から離れるフォーヴィスムの転換を、同時代の広い造形交流の中で見る作品
この作品の解説画像を拡大画像出典
フアン・グリス《ピカソの肖像》
ピカソの肖像 / フアン・グリス1912年
複数の参照と実験が交差したキュビスムを、一つの影響だけへ還元せずに見るための作品
この作品の解説画像を拡大画像出典

よくある質問

アフリカ美術がキュビスムを生んだのですか?
重要な接点ですが、単独の原因ではありません。セザンヌの絵画、イベリア彫刻、写真、画家同士の実験なども関係します。さらに、作品がヨーロッパへ渡った植民地的な経路を含めて考える必要があります。
『プリミティヴィズム』という言葉は使ってはいけませんか?
歴史的な概念を説明するために引用することはありますが、価値中立的な様式名としては扱いません。多様な文化を原始的と位置づける西洋中心の序列を含むため、批判的な説明が必要です。
植民地主義の視点で見ると、近代美術を楽しめなくなりませんか?
作品の魅力を手放す必要はありません。形や色に加え、参照された文化、移動経路、展示制度まで視野へ入れると、作品を生んだ関係が以前より多く見えるようになります。

作家・時代・見方を選ぶ

美術史の順番近代社会の変化からアートを読む

19世紀以降の美術を、社会や思想の変化と一緒に読みたいときに。

同じテーマ植民地主義

同じテーマの記事をまとめています。

ほかの記事を探す

作品・作家

近い作品・作家の記事

同じ作家や時代を扱う記事です。

フアン・グリス《ピカソの肖像》

1907-1910年代 / フランス

キュビスムとは? 一枚にいくつもの角度を重ねた絵

キュビスムの絵では、顔の正面と横顔、ギターの穴と側面が一枚に重なります。一つの場所から見た形に固定せず、角度を変えるたびに見えた情報を組み直したからです。何が描かれているか迷ったら、見覚えのある断片を一つ探してみてください。

記事を読む
ガボンのベツィ=ファンの作家による木製の守護頭部ンロ・ビエリ

20世紀後半以後 / 国際

作品はどこから来て、誰の声で語られているのか

見る対象
作品の形から、由来、所有、展示、語り手へ視野を広げる
接点
オリエンタリズム、プリミティヴィズム、返還、グローバル美術

展示ラベルに作者名がなく、『ある文化の作家』とだけ書かれている。取得年はあっても、誰から渡ったかは分からない。そんな空白に出会ったら、作品がここまで来た経路を考えてみます。

記事を読む
アンリ・マティス《帽子の女》

1900年代前半 / フランス

フォーヴィスムとは? 1905年の展覧会で起きたこと

《帽子の女》の顔には、緑、青、黄色がそのまま置かれています。肌の色としては不自然です。1905年、このような絵を同じ部屋で見た観客は、強い色に驚きました。色は顔や風景を説明する役目から離れ、画面のリズムを作り始めます。

記事を読む

革命、都市の余暇、近代の視線。19世紀の空気が画面にどう現れたかを追います。

特集の記事をすべて見る
ウジェーヌ・ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》

作品ガイド

《民衆を導く自由の女神》は、なぜ死者の上を進むのか

作品
ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》
何革命?
1830年7月革命(7月27日から29日の「栄光の三日間」)

倒れた人々を踏み越え、三色旗を掲げた女性がこちらへ進んできます。ドラクロワが描いたのは1830年の7月革命です。中央の女性は「自由」に身体を与えた寓意像で、特定の参加者を描いた人物ではありません。

記事を読む
エドゥアール・マネ《オランピア》

作品ガイド

《オランピア》は、なぜ当時の観客を怒らせたのか

作品
エドゥアール・マネ《オランピア》
制作と発表
1863年制作、1865年のサロンに出品

白い寝台に横たわる女性が、こちらをまっすぐ見返しています。《オランピア》は、マネが1863年に描き、1865年のサロンへ出品した裸婦像です。モデルはヴィクトリーヌ・ムーラン。

記事を読む

テーマを広げる

関連するテーマ

同じタグや視点を持つ記事をまとめました。

東方風の室内で背を向ける女性を描いたアングル《グランド・オダリスク》

18世紀末〜19世紀 / ヨーロッパ・北アフリカ・西アジア

ターバンやタイルの向こうに、誰の視線があるのか

対象
西洋側が一括して想像した北アフリカ、西アジア、地中海東部
成り立ち
旅行と観察に、文学、収集品、空想、植民地支配が重なった

《グランド・オダリスク》には、ターバン、孔雀の羽根の扇、青いカーテンが描かれています。しかしアングルは北アフリカや西アジアを訪れていません。19世紀の「東方」は、旅で見たもの、輸入された品、文学、帝国の政治、画家の空想が混ざる場所でした。

記事を読む
船上の人物と階段やロープを切り取ったスティーグリッツ《三等船室》

1839年〜20世紀初頭 / ヨーロッパ・アメリカ

写真の発明は絵画をどう変えた?切り取り・複製・近代の視覚

転換点
1839年に複数の写真方式が公に紹介された
視覚の変化
偶然の切り取り、瞬間、複製可能な像が広がる

1839年に写真術が公表されたあとも、写実絵画は作られました。写真家は絵画の構図や光を学び、画家は写真を資料に使い、画面の端で人物が切れるような見え方も試します。『写真が写実を引き受け、絵画が自由になった』という一行では収まらない往復をたどります。

記事を読む
アンディ・ウォーホル《Campbell's Soup Cans》

1950〜60年代 / 英米中心

スープ缶が美術館へ入ったとき、何が変わったのか

背景
戦後の大量消費、広告、テレビ、雑誌文化の拡大
美術の変化
商品や大衆イメージが、美術の中心的な素材になった

同じスープ缶が、店の棚を思わせる等間隔で並んでいます。別の大画面では、コミックの爆発音と網点が拡大されています。戦後の街を埋めたパッケージ、広告、テレビ、雑誌を、ポップアートは美術館へ運び込みました。

記事を読む

参照した資料