まず「落選」と「酷評」を分ける

落選は審査を通らなかったこと、酷評は公開後に批評家や観客から強く批判されたことです。マネの二作品は、ここを分けると経緯がはっきりします。

19世紀のサロンは、数千点が壁の上まで並ぶ大規模展でした。審査員が入選と賞を決め、展示位置も注目度を左右します。新聞や雑誌の評は、会場で起きた反応をさらに多くの読者へ運びました。

《草上の昼食》は、1863年の落選者展

1863年の審査では、応募作の半数以上が落選しました。抗議を受けたナポレオン3世は、落選作を別会場で公開するよう命じます。マネは《草上の昼食》を含む三点を、こちらの落選者展へ出しました。

《草上の昼食》は、公式サロンに入選して騒がれた作品ではありません。審査に退けられた事実と、別会場で観客に見られた事実。その両方が評判の一部になりました。

《オランピア》は、1865年の公式サロン

二年後の《オランピア》は、公式サロンの審査を通っています。裸婦の型はティツィアーノなど古い絵画に連なりますが、女性は同時代の部屋に横たわり、観客を正面から見返します。

入選は好評を意味しません。作品の前には人が集まり、新聞評では主題や描き方が攻撃されました。《草上の昼食》との違いは、今度の論争が公式展の内側で起きたことです。

《印象、日の出》は、1874年の独立展

31人の画家が運営組織を作り、1874年4月15日にナダールの写真館で展覧会を開きました。出展者は30人、作品はおよそ200点です。告知には、審査も賞もない展覧会だと明記されていました。モネ《印象、日の出》もここに並びます。

会期中の来場者は約3,500人。同じ年のサロンは約50万人だったと、ワシントンのナショナル・ギャラリーは比較しています。新しい発表方法は生まれましたが、客足も販売も振るわない小さな独立展でした。

批評家の悪口が、グループ名として残った

批評家ルイ・ルロワは、モネの題名にある「印象」を使って展覧会をからかいました。画家たちが最初からその名で一つの様式を宣言したわけではありません。外から投げられた呼び名が、やがてグループを指す言葉になります。

作品を見るときは、制作年に加えて初出展も確認してください。公式サロン、落選者展、画家自身の独立展では、審査の有無も観客数も違います。画面は同じでも、最初に掛かった場所によって評判の広がり方は変わりました。

作品で見る

マネ《オランピア》
Olympia / エドゥアール・マネ1863年
1865年の公式サロンに入選し、会場と新聞で激しい反応を受けた
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マネ《草上の昼食》
草上の昼食 / エドゥアール・マネ1863年
1863年の公式サロンに落選し、ナポレオン3世が認めた落選者展で公開された
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モネ《印象、日の出》
印象、日の出 / クロード・モネ1872年
1874年の独立展に出品され、ルイ・ルロワの批評が「印象派」という呼び名に結びついた
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よくある質問

サロンは美術館と何が違いますか?
美術館は作品を収蔵し継続的に展示します。19世紀のサロンは定期開催の公募展で、審査員が入選や賞を決めました。
批評は作品の価値を決めていたのですか?
批評だけで価値が決まるわけではありません。ただし新聞や雑誌が会場の反応を広げ、後に残る作品の呼び名にも影響しました。「印象派」はその分かりやすい例です。
印象派はサロンを完全に拒否したのですか?
画家によって態度は異なり、サロンへの出品を続けた画家もいます。1874年展の要点は、審査も賞もない場を画家たち自身が運営したことです。

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エドゥアール・マネ《オランピア》
制作と発表
1863年制作、1865年のサロンに出品

白い寝台に横たわる女性が、こちらをまっすぐ見返しています。《オランピア》は、マネが1863年に描き、1865年のサロンへ出品した裸婦像です。モデルはヴィクトリーヌ・ムーラン。

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