この絵が落ち着かないのは、裸の有無より『場の成り立たなさ』のせいです

前景には服を着た男たちと裸の女がいて、奥には水浴びする女がいます。戸外の気楽な場面に見えそうなのに、会話の向きも距離も噛み合っていません。誰かが誰かに自然に応じている感じが薄く、人物が同じ場にいながら少しずつ孤立しています。

だから《草上の昼食》は、ただ裸婦があるから騒がれたのではありません。むしろ、安心して読める場面としてまとまらないことが、この絵の不穏さをつくっています。

1863年に問題になったのは、古典の形が現代服のまま出てきたことでした

Musée d'Orsay の解説がはっきり書いているように、この絵はティツィアーノに帰せられていた《田園の合奏》や、ラファエロ系の図像を踏まえています。マネは古典を否定するというより、古典の枠組みを借りたまま別の時代へ持ち込みました。

そこで決定的だったのが、神話や寓意の名札をつけず、同時代の服を着た男たちと一緒に裸の女を置いたことです。古典なら成立したはずの構図が、19世紀パリでは急に生々しく見えてしまう。そのずれが1863年の観客を刺激しました。

画面の奥行きが素直につながらないので、視線がどこにも安定しません

この絵では、前景の人物群と背景の水辺がきれいな遠近でつながっていません。奥の女の大きさも少し奇妙で、森の空間は広がるというより貼りついて見えます。

Musée d'Orsay も、光と影の扱いが急で、背景の森から深い奥行きを意図的に外していると説明しています。マネはここで写実の滑らかさを求めるのではなく、画面の前面性を保ったまま人物を押し出しています。

いちばん強いのは、こちらを見返す女の視線です

画面の男たちは互いの方を向いていますが、裸の女だけは観客の方へ視線を返しています。そのため、鑑賞者は森の外から安全に覗いているだけでは済みません。

この視線があることで、《草上の昼食》は自然の中の優雅な会話図にならず、『見ている側も見られている』絵になります。マネの近代性は、筆触の新しさだけでなく、この視線関係の置き方にあります。

見るときは、まず前景の三人、次に奥の水浴び、最後に森の平たさへ戻る

この絵は引用元を知る前でも見られます。まず前景の三人の関係を追い、次に奥の女の大きさと位置に引っかかり、最後に森が奥へ抜けず平たく見えることへ戻ると、マネがどこで画面をずらしているかがつかめます。

そうすると、《草上の昼食》は『近代美術の問題作』という肩書きより、古典の言葉で近代の気まずさを書いた絵として見えてきます。

作品で見る

エドゥアール・マネ《草上の昼食》
Le Déjeuner sur l'herbe / エドゥアール・マネ1863年
古典引用と同時代の人物関係が正面衝突し、見る側の落ち着かなさまで作品の一部になる
画像を拡大画像出典
エドゥアール・マネ《オランピア》
Olympia / エドゥアール・マネ1863年
《草上の昼食》で揺らいだ視線の問題が、室内の人物像としてさらにむき出しになる
画像を拡大画像出典
エドゥアール・マネ《フォリー=ベルジェールのバー》
A Bar at the Folies-Bergère / エドゥアール・マネ1882年
空間の噛み合わなさを、鏡と都市のにぎわいの中でさらに複雑にした晩年作
画像を拡大画像出典

よくある質問

この絵は、裸婦がいるからスキャンダルになったのですか?
裸婦だけなら西洋絵画に前例はあります。問題になったのは、神話や寓意の名札を外したまま、同時代の人物関係として差し出したことでした。
古典を壊した作品と考えてよいですか?
壊したというより、古典の構図をそのまま現代へ持ち込み、そこに生まれる違和感を前面化した作品として見ると腑に落ちます。
最初はどこを見ると入りやすいですか?
前景の三人の視線関係を見たあと、奥の水浴びする女の大きさへ目を移し、最後に森の空間が平たく見えることへ戻ると、画面のずれがつかみやすくなります。

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