顔を隠すと、同じ方向を見たくなる

人物がこちらを向いていれば、まず年齢や表情を読むでしょう。背中しか見えないため、目は人物を越えて雲海へ進みます。彼が何を感じているかは決められません。

フリードリヒは、このような背面人物をほかの作品でも用いました。鑑賞者は人物を外から観察しながら、同じ景色を見る位置にも置かれます。誰かの旅の場面が、自分の視線を意識する場面へ変わります。

雲が、谷の深さを見えなくする

手前の岩は輪郭も質感もはっきりしています。ところが、その先の谷は雲に覆われ、山の頂だけが島のように浮かびます。足元から遠景までの距離を、地図のように測ることはできません。

見えない谷があるから、旅人の立つ高さや危うさを想像します。フリードリヒの風景は、名所を正確に案内するものというより、自然の前で自分の小ささや立ち位置を考えさせる場所です。

ドラクロワの群衆、ターナーの光とは違う静けさ

ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》では、群衆がこちらへ進んできます。ターナーでは光や煙が画面の境目を溶かします。フリードリヒの人物は動かず、風景も大きな音を立てません。

三人ともロマン主義に数えられますが、感情を動かす方法は別々です。フリードリヒでは、空白、霧、背中を見せた人物が沈黙を長引かせます。劇的な事件がないことが、かえって画面から離れにくくします。

広告や映画でも見かける『背中と絶景』

広い風景の手前に背中を向けた人を置く構図は、映画や旅行広告でもよく見かけます。人物が風景の大きさを測る目印になり、見る側もその人の場所へ入りやすいからです。

似た構図を見つけたら、人物を消した場合も想像してみてください。風景だけなら美しい眺めで終わるところへ、一人の身体が入ることで、到着、決断、孤独といった物語が生まれます。

岩、雲、背中の順に見る

人物からいったん目を外し、手前の岩の輪郭を追います。白い雲が隠している範囲を見てから旅人の足元へ戻ると、立っている場所が急に高く感じられます。

そのあと旅人の肩越しに遠くの山を見ます。彼の感情を一語で決める必要はありません。怖い、晴れやか、孤独など、自分が最初に感じた言葉と、画面のどの部分が結びついたかを確かめるとよいでしょう。

作品で見る

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《雲海の上の旅人》
雲海の上の旅人 / カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ1818年頃
ロマン主義的な“見る主体”を示す基準作品
画像を拡大画像出典
J.M.W.ターナー《戦艦テメレール号》
戦艦テメレール号 / J.M.W. ターナー1839年
ロマン主義風景の別方向を比較する作品
この作品の解説画像を拡大画像出典
クロード・モネ《日傘の女性》
日傘の女性 / クロード・モネ1875年
近代風景表現への接続を示す比較対象
この作品の解説画像を拡大画像出典

よくある質問

フリードリヒとはどんな画家ですか?
ドイツ・ロマン主義を代表する風景画家です。背を向けた人物、広い空、霧や雲海を通して、自然を見る体験そのものを作品にしました。
フリードリヒの代表作は何ですか?
《雲海の上の旅人》が特に有名です。顔を見せない人物と広大な風景によって、鑑賞者自身がその場に立つような感覚を作っています。
この絵は“孤独”を描いた作品ですか?
孤独の読みは有力ですが、それだけではありません。自然と向き合う主体の位置取りそのものを問う構図としても読めます。
ロマン主義の風景画は写実性が低い?
写実性を捨てたというより、写実の目的を変えています。地形情報の正確さより、体験の強度を優先する方向です。
最初にどこから見ると追いやすい?
人物より先に、岩と雲の境界線を追うと追いやすいです。そこで空間の作り方をつかんでから人物へ戻ると、意図が浮かびやすくなります。

作家・時代・見方を選ぶ

同じテーマカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ

同じテーマの記事をまとめています。

ほかの記事を探す

作品・作家

近い作品・作家の記事

同じ作家や時代を扱う記事です。

フリードリヒ《雲海の上の旅人》

19世紀中心 / ヨーロッパ・日本

風景画の歴史入門:背景だった景色が“主役”になるまで

人の後ろに広がる雲海、夕日へ曳かれる古い戦艦、遠くの富士へ重なる大波。同じ風景画でも、こちらが感じる時間はまるで違います。自然を正確に写したかを競う前に、人物、光、地平線がどこに置かれたかを比べてみましょう。

記事を読む

波、夕立、蒸気。天候と大気が、景色を出来事へ変える3枚です。

特集の記事をすべて見る
葛飾北斎《神奈川沖浪裏》

作品ガイド

《神奈川沖浪裏》を、波だけで終わらせない

読み方
かながわおきなみうら
作者
葛飾北斎

《神奈川沖浪裏》は「かながわおきなみうら」と読みます。葛飾北斎の『冨嶽三十六景』の一図で、1830〜1832年頃に刊行されました。大波の下には三艘の舟があり、その奥に小さな富士が見えます。

記事を読む
歌川広重《名所江戸百景 大はしあたけの夕立》

作品ガイド

《大はしあたけの夕立》を解説|雨の線とゴッホへの影響

作者・制作年
歌川広重、1857年(安政4年)
シリーズ
《名所江戸百景》第58景

《大はしあたけの夕立》は、隅田川に架かる新大橋を突然の夏の夕立が襲う場面です。橋の人々は身をすぼめて急ぎ、川では筏を操る船頭が雨を受けています。広重は交差する細い雨線、暗い雲、近くで切れる橋を組み合わせ、静止した木版画に雷雨の時間をつくりました。

記事を読む
J.M.W.ターナー《雨、蒸気、速度―グレート・ウェスタン鉄道》

作品ガイド

輪郭が消えるほど、列車は速くなる。《雨、蒸気、速度》

作者・制作年
J.M.W.ターナー、1844年
何を描いた?
雨の中、メイデンヘッド鉄道橋を渡る蒸気機関車

雨の中から黒い機関車が現れ、細い橋をこちらへ走ってきます。車輪も客車もよく見えません。それでも速さは伝わる。橋の急な遠近と、線路に描き足された小さな野うさぎを手がかりに、この見えにくい絵をたどります。

記事を読む

テーマを広げる

関連するテーマ

同じタグや視点を持つ記事をまとめました。

J.M.W.ターナー《雨、蒸気、速度》

19世紀 / 日本・イギリス

波、雨、霧をどう描く? 北斎・広重・ターナー

北斎の波は爪のような先端を伸ばし、広重の雨は画面を斜めに横切ります。ターナーの霧は、古い戦艦の輪郭を夕日の中へ溶かします。天気は背景に留まりません。見る人の身体へ、圧力、速度、湿り気として届きます。

記事を読む
ウジェーヌ・ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》

19世紀前半 / フランス

旗の下で、群衆はどちらへ進むのか

赤・白・青の旗ばかり見ていると、足元の光景を見落とします。裸足、落ちた靴、倒れた兵士。その上を市民と「自由」の女性像が進んでくる。描かれたのは1789年のフランス革命ではありません。

記事を読む

参照した資料