この作品が難しく見えるのは、失敗ではなく『動き』を優先しているからです

普通の絵では、人がどんな姿かをまず確定してから見ます。顔、腕、脚、服。ところが《階段を降りる裸体 No.2》では、その確定がなかなかできません。身体が分解され、重なり、前後にずれて見えます。

でもそれは、描き損ねたからではありません。デュシャンは『一瞬の完成像』より、『移動中の見え方』を前に出しました。つまりこの絵は、人そのものより、人が動くときに視覚がどう追いつけなくなるかを描いています。

キュビスムに近いのに、キュビスムだけでは収まりません

この作品はしばしばキュビスムと並べて語られます。たしかに形を分解し、複数の面へ開くところは近いです。ただ、キュビスムが対象の構造を考え直す方向へ向かうのに対し、この作品では動きの連続がかなり前へ出ています。

だから見ていると、ただ分析されているというより、形が前へ流れていく感覚があります。そこが未来派とも接点を持つところですが、未来派が速度や機械文明の熱を押し出すのに対し、デュシャンはもっと冷静に、『動いているものを絵でどう見るか』という問題そのものを試している感じがあります。

裸体は主題というより、視覚実験のための最小単位になっています

タイトルには『裸体』とありますが、この作品で重要なのは官能的な身体ではありません。むしろ服や細部を取り払い、身体を運動の骨格として扱いやすくしているように見えます。

階段を降りる、というありふれた動きも大事です。走るほど速すぎず、立ち止まるほど静かでもない。この中間的な動きだからこそ、重なりやずれが見えやすい。デュシャンは主題を大げさにせず、視覚の問題だけが前に出る場面を選んでいます。

なぜ当時こんなに騒がれたのか

この作品は1913年のアーモリー・ショーでも大きな話題を呼びました。理由は単純で、人を描いた絵なのに、見る人が人として気持ちよく受け取れなかったからです。『何が描いてあるのか』をすぐには確定できない。その戸惑い自体が衝撃でした。

ここで大事なのは、騒ぎが単なるスキャンダルではなかったことです。絵画が、現実をわかりやすく再現する役割からどこまで離れられるのか。この作品はその境界をかなり強く押し広げました。

見るコツは、『人を探す』より『リズムを追う』ことです

この作品を前にしたら、最初に頭や腕を特定しようとしなくて大丈夫です。まずは画面の上から下へ流れる斜めのリズム、同じ形が少しずつずれて反復している感じを見る方が入りやすいです。

そのリズムが見えてくると、絵は急に『壊れた人体』ではなく、『動きがほどけながら見えている状態』へ変わります。《階段を降りる裸体 No.2》の面白さは、描かれた人を理解することより、見ることそのものが少し不安定になる体験にあります。

作品で見る

マルセル・デュシャン《階段を降りる裸体 No.2》
Nude Descending a Staircase, No. 2 / マルセル・デュシャン1912年
人体を複数の瞬間へ分解し、動きの見え方そのものを絵画の主題にした作品
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フアン・グリス《ピカソの肖像》
Portrait of Picasso / フアン・グリス1912年
同時代のキュビスム作品と比べると、デュシャンが『構造』より『運動』へ比重を置いていたことがつかみやすい
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ウンベルト・ボッチョーニ《都会の喧騒》
The City Rises / ウンベルト・ボッチョーニ1910年
未来派が速度の熱気を画面化した作品と並べると、デュシャンの冷静な視覚実験がよく見える
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よくある質問

《階段を降りる裸体 No.2》はキュビスム作品ですか?
キュビスムと強い接点はありますが、それだけでは収まりません。形の分解に加えて、動きの連続や時間の感覚がかなり前へ出ています。
どうしてこんなに人がわかりにくいのですか?
人の形をきれいに固定するより、動いているときに視覚がどうずれるかを優先しているからです。わかりにくさ自体が、この作品の実験の一部です。
最初はどこを見ると入りやすいですか?
人体の部位を特定しようとする前に、画面の上から下へ流れる反復と斜めのリズムを見るのがおすすめです。動きの束として捉えると急に近づきます。

出典