25センチの紙から、富士の裾がはみ出す

《凱風快晴》には、人も建物も舟も見当たりません。赤い斜面が画面の大半を占め、目を預けられる場所はほぼ富士だけです。名所の説明になる脇役を置かず、山の輪郭と色だけで一枚を立たせています。

頂上は画面の上端近く、山裾は左右の外へ続きます。遠くから全景を眺める構図とは逆に、巨大な斜面が視界へ入り込みます。紙の実寸を知ると、北斎が小さな版面で作った大きさが際立ちます。

赤富士は、初秋の夜明けの姿とされる

通称の『赤富士』は、朝の光を受けて富士が赤みを帯びる現象に由来します。The Met は、初秋の早朝に見られる姿としてこの版画を紹介しています。

青空と白い雲の下にあるため、赤は炎や夕焼けには見えません。雲の白は紙の地を生かし、山頂の雪と呼応します。赤、青、白という少ない色で、時刻と天候を区別しています。

緑の三角形を、木だと気づくまで見る

山裾に並ぶ木は、細い三角形に見えるほど小さく縮んでいます。目を凝らしてようやく木だとわかった瞬間、それまで平らな赤い面に見えた斜面が、途方もない大きさを持ち始めます。

人物を置いて高さを説明する代わりに、北斎は遠い木を物差しにしました。空の雲も細い帯にとどめています。小さなものを端へ寄せたことで、富士の広さがいっそう際立ちます。

赤の濃さは、一枚ごとに違う

浮世絵版画では、版木に色をのせて紙へ摺り、その作業を繰り返して何枚も作ります。《凱風快晴》にも、色や摺り方を変えたものが残っています。2021年発表の研究は93点を調べ、版木の摩耗、色、摺りの効果を手がかりに、制作の段階を五つに分けました。

色が薄いというだけで、濃い赤が褪せたものと決めることはできません。2019年の研究では、大英博物館の赤い一枚と、ギメ美術館の淡い『ピンク富士』を比較。同じ版木から摺られた両者のうち、ピンクの方が先に摺られたと判断しています。

摺りの前後は、雪や木の線から調べる

研究者が見たのは、色の濃淡だけではありません。版木を使ううちに生じた線の欠けや、山頂の雪、山裾の木の輪郭を高精細写真で比べ、色材も非破壊で調べました。細い線は、風景を描く線であると同時に、版木が使われた過程を残す手がかりになります。

ただし、この二枚の比較から、掲載したメトロポリタン美術館の一枚が何番目に摺られたかまではわかりません。別の美術館や図録で《赤富士》に出会ったら、山頂の白い雪の形、山裾の小さな木、空の色を見比べてみてください。色の違いに気づいたあと、所蔵先と作品番号を確かめると、どの一枚を見ているのか追いやすくなります。

「三十六景」は、人気を受けて46図になった

《凱風快晴》は《冨嶽三十六景》の一図です。連作は評判を呼び、版元の永寿堂が当初の構想へ10図を追加したため、最終的には46図になりました。題名と実数が違うのはそのためです。

《神奈川沖浪裏》では波と舟が次の一秒を想像させます。《凱風快晴》には出来事がなく、富士の色と天候が主題になります。同じ連作の中で、北斎は場所に加えて時間の流れ方も変えました。

見る順番は、山裾から頂上へ

最初から頂上だけを見ず、山裾の木から赤い斜面へ目を上げてみてください。さらに青い筋、白い雪、空の雲へ進むと、自分の視線で斜面を登ったような高さが残ります。

そこでもう一度全体を見る。赤い三角形だった富士に、早朝の光と乾いた空気が加わります。要素の少ない絵ほど、一つずつ見たあとで全景へ戻る時間が効いてきます。

作品で見る

葛飾北斎《凱風快晴》
South Wind, Clear Sky (Red Fuji) / 葛飾北斎(1830-1832年頃)
富士だけで画面を成立させる北斎の版画。赤い山肌と雲の帯だけで、時間と天候が伝わってくる
画像を拡大画像出典
葛飾北斎《神奈川沖浪裏》
The Great Wave off Kanagawa / 葛飾北斎(1831年頃)
同じ連作でも、こちらは波と舟で時間が前へ出る。《凱風快晴》の静けさは、この差でいっそうはっきりする
この作品の解説画像を拡大画像出典
歌川広重《名所江戸百景 大はしあたけの夕立》
Sudden Shower over Shin-Ōhashi Bridge and Atake / 歌川広重(1857年)
天気の変化を線で押し出す広重と比べると、北斎が色面の切り替えで空気を見せていることがよくわかる
この作品の解説画像を拡大画像出典

よくある質問

色の薄い《赤富士》は、褪色したものですか?
色の薄さだけでは決められません。同じ版木でも色や摺り方が異なる例があり、研究ではギメ美術館の『ピンク富士』が大英博物館の赤い一枚より先に摺られたと判断されました。個々の保存状態や摺りの前後は、線の欠けや色材なども調べて判断します。
なぜ《赤富士》と呼ばれるのですか?
富士が朝の光を受けて赤く見える現象を踏まえているからです。初秋の夜明けの富士と説明されることが多いです。
《神奈川沖浪裏》と同じシリーズですか?
はい。どちらも《冨嶽三十六景》の一枚です。同じ富士でも、こちらは出来事より存在感の方へ重心があります。
この絵はどこから見ると追いやすいですか?
山裾の木から始め、赤い斜面、空の雲の順に追うと、北斎が空気の層で富士を立てていることが追いやすくなります。

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この順番で読む《神奈川沖浪裏》から北斎と浮世絵に入る

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