この絵でいちばん大きいのは、演者ではなく屋根です

National Gallery でも、この作品ではミス・ララが左上へ追いやられ、画面の大部分をサーカスの屋根の構造が占めることが強調されています。普通なら演者を中央に据えたくなる場面です。ドガはそこで、天井の格子と梁を主役級に扱っています。

だからこの絵は、アクロバットを眺める絵であると同時に、観客がどう見上げていたかを体に思い出させる絵でもあります。主役が小さくても、場の緊張はむしろ強くなります。

ミス・ララの『鉄の顎』は、危険さより静かな制御として残ります

ミス・ララは Anna Albertine Olga Brown として知られるサーカスのスターでした。歯で支える『Iron Jaw』の演目で名高い人物です。National Gallery でも、その力技がこの作品の背景として説明されています。

けれど画面を見ると、驚きより先に姿勢の制御が残ります。体は宙にありながら、脚や腕の線は屋根の斜材と呼応していて、危うさがすぐ崩れません。ドガはサーカスの見世物を、構図の問題としても読み替えています。

視線はリングではなく天井へ向かい、サーカスが別の場所になる

19世紀のサーカス画は、リングや観客席を主に見るものが多いです。ところがこの作品では、観客の視線が一気に上へ持ち上がるため、会場の中心が床ではなく屋根へ移ります。

この切り替えによって、サーカスは地上の娯楽空間というより、少し不安定な空中の装置に見えます。ドガがここで面白がっているのは、演目そのもの以上に、見る位置が変わると空間が別物になることです。

第4回印象派展に出たとき、この見上げる構図自体が新しかった

この作品は 1879 年の第4回印象派展に出品されました。National Gallery の記録でも、その出展歴が確認できます。印象派というと戸外の光が思い浮かびますが、ドガはここで都市の娯楽空間と複雑な視点の問題を持ち込みました。

同じ印象派の中でも、ドガが光の揺れだけではなく、身体のポーズと空間の切り方に強く関心を持っていたことがよく出ています。

見るときは、ミス・ララだけでなく屋根の対角線を追う

まず左上のミス・ララを見つけたら、そこから緑の梁、窓の縁、天井の格子へ順に目を動かしてみてください。すると、人物の姿勢が屋根の線とどう結びついているかがつかめます。

そのあとで下からもう一度人物へ戻ると、この絵が『空中演技の記録』ではなく、『見上げるという行為を描いた絵』として残りやすくなります。

作品で見る

エドガー・ドガ《フェルナンド座のミス・ララ》
Miss La La at the Cirque Fernando / エドガー・ドガ1879年
演者を中央へ置かず、屋根の構造と見上げる視線まで一枚の中に入れたことで、サーカスが空間の体験として残る
画像を拡大画像出典
エドガー・ドガ《踊りの稽古場》
The Dance Class / エドガー・ドガ1874年
同じドガでも、こちらは右から左へ流れる室内空間を見る絵。ミス・ララと並べると、ドガが視点の高さをどう変えるかを追える
詳しく読む画像を拡大画像出典
エドゥアール・マネ《フォリー=ベルジェールのバー》
A Bar at the Folies-Bergère / エドゥアール・マネ1882年
同じ近代パリの娯楽空間でも、マネは鏡で視線をずらし、ドガは見上げる角度で空間を組み直す
詳しく読む画像を拡大画像出典

よくある質問

ミス・ララは実在の人ですか?
はい。Anna Albertine Olga Brown として知られる実在のサーカス芸人で、『Miss La La』の名で広く知られました。National Gallery でもその経歴が紹介されています。
なぜこんなに見上げる構図なのですか?
ドガが演技そのものだけでなく、観客が首を上げる感覚まで画面に入れたかったからです。屋根の線が大きく入ることで、その感覚が強まります。
最初はどこから見るとよいですか?
人物だけを見るより、左上のミス・ララから梁や窓の対角線へ目を動かすと、画面の組み方を追いやすいです。

NEXT

次にできること

次に1本読むドガ入門:《踊りの稽古場》が“途中の瞬間”に見える理由

ドガの絵は、完成したポーズより“いま動いている最中”を見せてくれます。だからこそ、作品の中へこちらの視線が入り込みやすくなります。

作家で読むエドガー・ドガ

代表作、比較記事、展覧会予習をまとめてたどれます。

テーマで読む作品を読む

同じ切り口の記事をまとめて見られます。

KEEP GOING

ここから広げる

近い作品、比較できる記事、少し離れた流れへ進める棚を置いています。 気になった方向だけ拾ってください。

KEEP GOING

この続きから読む

いま読んだ作品や作家のすぐ近くにある記事を、次の寄り道先として並べています。

エドガー・ドガ《踊りの稽古場》

作品ガイド

《踊りの稽古場》はなぜこんなに途中に見えるのか? ドガが本番前の時間を絵にした理由

《踊りの稽古場》には、舞台の決定的な瞬間はありません。むしろ残るのは、足を休める人、順番を待つ人、先生の前で姿勢を見せる人が同じ部屋にいる時間です。ドガは完成した見せ場より、その直前の張った空気を一枚の中へ押し込んでいます。

記事を読む
エドゥアール・マネ《フォリー=ベルジェールのバー》

作品ガイド

鏡のずれから読む《フォリー=ベルジェールのバー》

女給は正面に立っています。ところが背後の鏡では、彼女の姿も客の位置も右へずれています。間違い探しのように答えを出しても、この絵の落ち着かなさは消えません。マネは、盛り場を見物する私たちの視線そのものを、少しだけ滑らせています。

記事を読む

舞踏会、サーカス、バー。人が集まる場所で視線がどう揺れるかを見ていく、近代パリの3枚です。

この棚を見る
ピエール=オーギュスト・ルノワール《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》

作品ガイド

《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》はなぜ人が多いのに息苦しくないのか? ルノワールが光で場をまとめる理由

この絵は人が多いのに、押しつぶされる感じがあまり残りません。理由は、人物を一人ずつ主役にしていないからです。ルノワールは群衆を塊として処理するのではなく、光の粒と視線の流れで場全体を呼吸させています。

記事を読む

WIDEN THE VIEW

切り口を少し広げる

同じタグや視点から、少しだけ離れた場所にある記事を置いています。流れを広げたいときに使えます。

クロード・モネ《印象、日の出》

作品ガイド

《印象、日の出》は何を始めたのか? ル・アーヴルの朝が『印象派』の名前になるまで

《印象、日の出》を一言でいうと、モネが朝の港を『形』より『光の見え始め方』で描いた絵です。印象派の『有名な1枚』として先に知られがちですが、本当に面白いのは、港の景色がまだ固まりきらないうちに、光だけが先に見えてくるところです。

記事を読む
ヨハネス・フェルメール《真珠の耳飾りの少女》

作品ガイド

美しいのに、なぜか怖い。5つの名画を見比べる

始まり
怖い、不思議、落ち着かないという第一印象
見る順番
視線、暗さ、空間、象徴の順に追う

名画は、いつも「美しい」から入らなくてもかまいません。少し怖い。なんとなく不思議。目が合うと落ち着かない。そう感じた場所には、作品を見る手がかりがあります。5つの名画を並べて、怖さや違和感がどこから来るのか確かめます。

記事を読む

出典